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【平和運動】平和運動の歩みのなかで〜出会いと課題〜
粟田栄(2002年)
私は今、ゆきのした文化協会で専従事務局長として平和文化を今日の情勢のなかで、いかに創造的に発展させていったらよいかと仲間のみなさんと一緒に取り組んでいます。 昨年11月に「平和文化史料館ゆきのした」を開館することができました。一周年の節目に「集い」を開いて、これからの課題について話し合ったところです。単に諸資料を保存するだけでなく、実物史料を活用していただき平和のために役立てていただく事が、館設立の主旨です。実物史料を展示しての移動展をこれからすすめていけたらと願っています。
ここに、焼夷弾と防毒マスクの実物を持ってまいりました。 焼夷弾は、1945年7月19日に福井空襲でお壕に落とされた物です。2時間の空襲で福井市は焼け野原になり、1600人余の尊い命が犠牲になりました。
防毒マスクは、戦前の品では、大変貴重で珍しいもだととのことです。昨年9月11日のニューヨークでのテロ事件以後、タンソ菌防止など危険のある地域で出回っているそうです。
今日は、外に貸し出していまして持参していませんが、史料館には、防空頭巾もあります。その頭巾は、空襲のおり母親が5歳の子供を連れて逃げましたが、母親の懐で息を引き取ったとき、子供が被っていたものです。「空襲展」を開いた際、ゆきのした文化協会に委託されたものです。
戦争とは、実に悲惨なものです。現在も、地球上では、近代兵器を使っての戦争の危険は、無くなっていません。
私は、世界に誇れる『日本国憲法』の第9条(「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」)の精神をいかして、人類が平和で、人間として皆幸せになれるような世の中であって欲しいと思っています。そのためにどうしたら良いのかと考えながら、平和友好運動に参加しています。
私が、現在の心境・思いになったのかをご理解いただくために、これから自己紹介を兼ねまして、これまでの平和運動の取り組み、その中で、どのような出会いがあったかを幾つかお話しさせていただきます。
子供の頃 私は、1947年に丸岡町竹田で生れ自然豊かな環境のなかで育ちました。幼稚園から中学まで一クラスで、夏は川遊びを、秋には近くの山へ松茸取りをするなど授業の一環として取り入れられるなど、伸び伸びと過ごすことができました。雪が降ると、バスが通らず先生が来られないので、自由時間となり「蹴り馬」遊びなどをしていました。
高校時代に出会った先生、中野鈴子さん、ゆきのした文化協会のこと 丸岡高校では、生涯の生き方を決める先生との出会いがありました。中林隆信先生です。英語を担当されていましたが、英語とともに「人間いかにいきるか」をおりにふれて話されました。印象に残っていることでは、良い文化に接することの大切さを語っておられました。その頃「ハムレット」の映画が福井で上映されていました。第一級の映画を見るようにと内容の解説をされ、先生自ら希望者を募り映画館へ連れていって下さいました。
先生は、高校の文芸誌「径」(みち)に「ある女性の生涯―詩と真実―」を発表され、私は夢中になって何度も読みました。丸岡町で田んぼをしながら詩をよんでいた中野鈴子さんの存在を初めて知ったのです。「なんと美しい夕焼けだろう」の詩に感動しました。ご存知の方もおられると思いますが、少し紹介させていただきます。
何と美しい夕焼けだろう
一人の影もない
風もない
平野の果てに遠く国境の山がつづいている
夕焼けは燃えている
あかくあかね色に
あのように美しく
わたしは人に逢いたい
逢っても何も言うことができないのに
わたしは何も告げられないのに
新しい志の中で
わたしはその人を見た
(中略)
そしてその人は生きている
ここでうたわれている「平野の果てに遠く国境の山」とは、私が子供時代を過した山です。とても親しみを感じました。時には夕焼けに見入りました。
私は、中野鈴子さんには、一度もお会いしていません。でもこの詩は心から離れません。いつも私の心の中で生きておられます。
鈴子さんが、郷土で農作業をしながら生み出した数々の詩。そして若い人たちと文芸誌「ゆきのした」を創刊(1952年)され、発行する紙代が無いときは、着物を質屋にいれて工面されておられたそうです。わが子のように成長を見守られた「ゆきのした」誌だったのです。鈴子さんが、ゆきのした文化協会の産みの親であることも知りました。こよなく多くの人々の幸せと平和を願っている方であることも知りました。
中林先生は、丸岡高校の図書館館長もされておられ、良書がたくさん揃えられていました。「ゆきのした」誌、中野鈴子詩集特別号もあり読みました。住井すゑさんが書かれた「橋のない川」もあり、差別問題についても知りました。パールバック著「大地」などの小説も読みました。京都で、直接に住井さんの講演会でお会いする機会があり、とても印象に残っています。
住井さんは、天皇も人間であり皆平等であると語っておられました。何か私のおばば(祖母)のような親しみを感じました。とても分かりやすいお話をして下さいました。
高校3年の正月に、中林先生のお誘いで「ゆきのした文化協会」の新年会に参加しました。会場が加藤忠夫ゆきのした文化協会の会長宅でした。そこで初めて加藤さんにお会いしました。そのご縁があったから、現在、加藤さんのお傍で平和文化活動に参加させていただけるきっかけとなりました。その席で、「ゆきのした」誌購読と会員になり今日に至っています。
京都生活33年の出会いから学んだことなど 1966年4月から1970年3月まで、京都の同志社大学で4年間学びました。「哲学・資本論研究サークル水曜会」に入部し4年を過ごしました。神学部を含む全学部に属するメンバー100人が「思想信条をこえて、真理を学ぶ」気風、「一人はみんなのために、万人は一人のために」の精神でそれぞれの個性を尊重しあう環境で「人間愛・平和」の大切さを身につけられたように思います。その頃ベトナム戦争の最中でした。サークルで討論し全員一致で「ベトナム戦争反対の決議」をし、デモに参加しました。水曜会の顧問でもあった住谷悦治先生(当時・同志社大学総長)のご自宅へ何度かお訪ねし、学究の姿勢―学問とは何か学びました。真理を学んだら、自分の人生において真理に誠実に行動することが大切との教えでした。
大学のサークルで学び合った仲間の多くは今も、平和運動で活躍しています。 大学生活で学んだことを、世の為、人の為に役立つ仕事をしたいと思っていました。 日中友好協会の専従になって 幸いなことに、日本と中国との友好運動を通して、アジア・世界の平和に貢献するとの目的を持った日中友好協会京都府連合会の専従職員にならないかとのお誘いがあり、大学を卒業してから2ヶ月間、民間の会社に勤めた後、1970年6月から就職しました。世間の常識からすれば、給料面では低く大変でしたが、この分野で平和友好活動に青春をかけようと思っていました。 やりがいがあり、協会には、善意の心やさしい多くの方々との出会いがあり、皆さんに支えられまして、29年間勤めることができました。 大西良慶清水寺貫主からの激励のお言葉 1970年12月に、新聞発行のインタビューのために、大西良慶清水寺貫主を訪問しました。貫主は、日中友好協会の顧問(当時)をされており、皆さんもご存知のように日本宗教者平和協議会の会長として世界平和の為にご尽力された方です。 初めてお会いしたとき、師は私に「若い人が専従になってくれて嬉しい。」と励ましの言葉をかけて下さいました。師は、日露戦争から日中戦争を通して、戦争で無残に殺しあう姿を直接見てこられた体験から、「二度と戦争をしてはいけない、そのために身を持って行動しなくてはならない」と語っておられました。
今振り返ると、お釈迦様の教えである「殺すことなかれ、殺すことを見逃すことなかれ」の教えを諭されたのだと思います。
京都で、日中戦争の発端になった「芦溝橋事件30周年」を記念して日中不再戦建立運動が展開されたおり、師は自らよびかけ人になられ日中友好の原点は「二度と武器をもってあい戦わない」との精神こそ肝要であると3メートル大の実寸で「日中不再戦」の題字を揮毫されました。84歳のご高齢を考えて世話役の方々が最初、半切に書いていただき、拡大して碑にしようと申し出たところ、「末代に残るのに、そんな偽物は書かない」と言われ、実物大の題字を揮毫されたとのことです。
建立費用400万円(当時)の一部50万円をご寄付されました。その碑は、名勝の地・嵐山に1968年7月、建立されました。碑は、中国大陸に向かっています。中国からの訪日団の皆さん、日本各地からの平和を願う方々が、この碑を訪れておられます。
師は、アメリカのベトナム侵略戦争をやめさす京都府民大集会の壇上から、声を大にして平和・不戦をよびかけておられました。仏教の教えを率先して実行されたお姿に深く感動しました。
大西良慶師のお弟子さんで清水寺教学局長の福岡精道師、立本寺貫主の細井友晋師からも多くのことを教わりました。福岡先生は、インドシナ人民支援のために清水寺の境内で支援募金に立たれ、約1000万円の浄財を集められ現地へ届けられました。細井先生は、晩年までこの地球上から核兵器廃絶のための平和運動の先頭に立たれました。国連へも要請行動にいかれています。 印象深い平和友好運動―心に残る出会い― 日中友好・平和運動の中で、私が直接係りました諸事業を通して、忘れられない多くの出会いがありました。
平和友好の課題で、どんなことを主にやって来たかを簡単にご紹介します。
@ 平和のための京都の戦争展」(1981年より毎年開催、1992年5月『立
命館大国際平和ミュージアム』として結実) 日中友好協会京都府連合会と機関紙協会京滋支部が結成30周年を向かえ
た1982年に、準備団体となり広範な団体個人に「平和のための戦争展」を京都で開催しようと相談しました。よびかけ人には東西両本願寺の門主、清水寺貫主、湯川スミさん(湯川秀樹夫人)などで、大型の展が開催できました。毎年10日間で、10万人〜20万人の参観者があり、開催費用も1500万から2000万円の規模で、すべて募金と墨蹟展での収入でまかないました。ビルマで軍医として戦争を体験された眼科医の中野信夫さんは、個人で500万を寄付されました。国際平和ミュージアム建設の際は、5億円寄付されています。平和のための京都の戦争展に、今日までに、のべ250万人の方が参観されました。
最初の展の時に、日中友好協会会員であった大原三千院の事務総長の大島亮準さんを訪問し協力のお願いをしましたところ、「仏の教えに通ずる」と三千院門蹟として協賛され、院入り口にポスター掲示をしてくださり、募金を10万円していただきました。
こうしたことが弾みとなり、主な寺院へお願いにあがったところ、墨蹟のご 協力とともに、募金も寺院関係で150万円の浄財をいただけました。いかに平和を願っておられるかと感動いたしました。大西良慶師さんが書いて下さった書、「和」は、70万円で求められた方もありました。師は、私にも色紙を一枚書いて下さいました。この色紙を私一人だけの所有にしてはいけないと思っています。「平和文化史料館ゆきのした」に収めていただき、来館された方々にご覧頂けたらと思っています。
A 中国残留孤児・婦人を支援する活動(1982年に支援し交流する会を結成) 肉親探し、帰国された孤児家族の支援、日本語教室の開講、残留婦人問題を取り上げた劇「再会」京都公演への参加。 1980年頃から、ようやく2万人確認されている中国残留孤児(「大地の子」著者の山崎豊子さんは「戦争孤児」と呼んでいます。自分の意志で孤児になったのではない、戦争の犠牲者という意味で)の皆さんが、肉親探しで来日されるようになりました。 私は、仕事の関係からボランチァの方々と一緒に肉親探しと京都に定住希望 をされる孤児(未判明も含む)の皆さんへの生活支援活動をすすめました。日本政府、自治体に対する定住にあたっての署名・要請行動を通して、なんとか住宅は保障されました。しかし、年金もなく、生活は大変でした。衣類・家具などをあちこちから頂き、帰国家庭へ届けることで、支援しました。 数百人の帰国孤児・家族の皆さんの中で、奥山いく子さんもそのお一人でした。奥山さんは、実にしっかりした方で、「日本国籍取得裁判」を日本政府相手に、一年半闘った方です。簡易帰化も出来たのですが、元々日本人であり、戦争の犠牲者である私が何故帰化しなくてはならないのかと、裁判されたのです。約2万の署名と裁判費用100万円が多くの方々から寄せられ全面勝利をしました。初めて日本政府に戦争故に孤児になったことを認めさせ、日本国籍取得の道を開かれました。 1999年12月に『再会』福井公演の際、プレ企画でこの場所で講演していただきましたので、奥山さんの数奇な歩みをご存知の方もあるかと存じます。家畜同然の食物しか与えられず、2度も売られ自分の意志でない結婚を強いられた人生でした。 残留婦人問題を扱った劇「再会」京都公演は、1989年に約800人の参加者で取り組みました。帰福した1999年12月に、みなさんとご一緒に取り組めたことも何かのご縁かと感謝しています。 奥山さんは今、京都市在住約800人の残留帰国者家庭(二世三世の)自立のための日本語教室を、6クラス開設するなどのお世話活動をされておられます。いつも励まされ心に残る方です。
B 「悪魔の飽食」(森村誠一著)の劇「荒野の落日」(俳優座)京都公演、混声合唱組曲「悪魔の飽食」京都公演(1996年7月)、同中国公演(1998年8月)。 現在、来年6月29日に、ハーモニーホールふくいで第12回全国縦断コンサート「悪魔の飽食」福井公演の開催準備をすすめています。北陸地域、日本海側では初めての公演です。 25年前に森村誠一著「悪魔の飽食」で、日本軍が中国ハルピンで3000人の人体実験をした事実を明らかにされました。300万部のベストセラーとなりました。 劇団俳優座が劇化し「荒野の落日」として全国公演を始めたのですが、京都ではどこも事務局になりやるところがありませんでした。 日中友好協会京都府連合会が中心となり、1990年12月18日に約90 0人の参観者で成功させることができました。 こうした取り組みの出会い実績もあって、「悪魔の飽食」組曲(7章)の全国 縦断コンサートを京都でやって欲しいとの要請に応えて、1996年7月7日、 京都コンサートホールで2200人の超満員の参加者で大成功させることがで きました。 日中の専従者でもありましたので、私が同公演の事務局長となり一年間の準 備期間に各界各層の方々にお会いし、ご支援ご協力をいただきました。 元731部隊と同じ南京方面の隊で人体実験を見聞した方が、犠牲になった 中国人の鎮魂に少しでもなればとその体験を語られ、自ら合唱に参加された方 もおられました。氏名を明らかにして新聞にその記事が載ったこともあって、 嫌がらせの電話があったそうです。そんな攻撃にもめげず舞台にたたれ歌われ ました。 京都公演の成功は、全国縦断公演への弾みとなり、全国各地で取り組まれ、 現在2005年までの予定が決まっています。 1998年8月には、第一回中国公演が、ハルピン・シンヨウで行なわれ2 50人の参加者で実現しました。森村誠一さん、指揮者の池辺晋一郎さんも参 加され、「祈りのハーモニーで永久の不戦と友好を誓いあう」旅となりました。 第二回中国公演は、来年、福井公演の終わった8月17日から24日まで、 北京と南京で行ないます。 森村さん、池辺さんは、「こうした歌がこの世で歌われる必要の無い世になる ために歌い広めよう」と、合唱団員、スタッフのみなさんと一緒に行動されて います。こうしたお姿は、とても尊敬できます。
C 平和と文化の集い(1990年より7月・12月の年2回)の開催。 日中戦争勃発の発端となった芦溝橋事件の7月7日、太平洋戦争勃発の12 月8日の年2回、京都で「平和と文化の集い」を1990年から開催しています。様々なジャンルからのゲストを迎えての講演会や映画会を開いてきました。 中でも日中戦争時、南京虐殺に直接加わった東史郎さんの体験は鮮烈でした。 氏の従軍日記「南京プラトーン」を発行しましたら、事実でないと攻撃されました。日本より中国でこの本はベストセラーになっています。
D 1980年初めに、映画「戦う兵隊」(亀井文夫監督)上映会のこと 戦争時の実写フイルムということもあって、マスコミでも事前案内があり、
1000人の参加者がつめかけました。戦争の傷痕の深さを痛感しました。 戦前は、嫌戦的だとお蔵入りになっていた映画でした。
E 宇野重吉さんの福井への郷土愛、平和への思い 宇野重吉さんを、京都在住の福井県人サークル若越会が主催して講演会を
開きました。 ゆきのした文化協会の加藤さんからのご紹介があり実現しました。宇野さん
は、生れ故郷の福井を大変愛されておられました。県外にあって、ゆきのした誌や会報で、郷土劇「エリーゼのために」への演劇指導の様子を知っていましたので、大変嬉しく思ったものです。
癌で闘病されながら、晩年は「宇野重吉一座」で全国公演をされました。京 都で公演が3日間あったのですが、舞台裏でお医者さんがつききりで、注射をうって舞台にでておられました。「生きる」大切さを教わりました。
「さくら桜隊散る」の映画(福井では100ヶ所上映)、「武器なき戦い」(右
翼の刃に殺害された山本宣治の生涯を描いた)の映画にも出演されるなど、戦争を憎み、平和を願うお気持ちが、身近に接し、お話しを伺う中で、よく伝わりました。
以上、京都生活で体験しました平和の取り組み、その中で心に残る印象深 い方々との出会いの一端をご紹介させていただきました。ご紹介できなかった方々からも多くのことを学ばせていただき、助けていただきました。今、自分があるのは、多くの方々の応援があったからこそと感謝をしています。 1999年9月に、帰福してからの重点取り組み @ ゆきのした文化協会の平和文化創造運動に係ることができました。
昨年11月には、多くの方々のご支援で「平和文化史料館ゆきのした」を開 館させることができました。みんなで諸資料を活用して、21世紀の平和文化づくりを地元福井県から築いていく取り組みをすすめています。 一言で開館できましたと言いましたが、それまでの過程では、ドラマが多く ありました。 簡単に、開館にいたる経過をご紹介させていただきます。
ゆきのした文化協会は、1965年(昭和40年)、戦後20年となっても放置されていました空襲・戦災の実体を明らかにするための活動を広く県民によびかけ、体験記録運動をすすめました。それから13年後の1978年に『福井空襲史』(福井空襲史刊行会刊)作りの原動力となりました。 その後も文学作品・創作曲・全国最大の「福井空襲大絵図」(50メートル)作りなどや原爆記録映画「さくら隊散る」県内100ヶ所上映などをすすめ、空襲・戦災の語り伝え活動をすすめ、その中で空襲・戦災・戦争の資・史料が収集されてきました。 1992年、これらの資・史料を保存・活用し、さらにみんなの力をつないで平和文化社会づくりをすすめるために、福井空襲犠牲者1600人の「おなまえ紙碑」をつくり、その前で平和文化史料館建設を誓いました。 その後、「ゆきのした館」移転を二度も強いられ、活動断絶の危機がありましたが、有志の協力で2000年7月に「史料館準備館」を設置。2001年11月、「平和文化史料館ゆきのした」を開館し、史料公開スタートとなりました。 その後も、みんなで資・史料の整理をはじめ、玄関・交流ルームづくりをすすめるなど、みんなでつくるみんなの「史料館」としての充実・発展をはかる活動がつづいています。
私は、京都で1999年6月までの「ゆきのした文化協会」の活動をニュース等で知っていました。ときおり郷土劇や戦後生活展参観に福井に戻っていましたが、直接当事者として活動には参加していませんでした。
偶然といいますか、奇遇なことに、33年間暮らした京都での生活を終え郷里の福井に帰る準備をしていた1999年6月、「ゆきのした」から送られてきた会報の「物置、倉庫などないかな」のお知らせに目が止まりました。
館の移転を迫られ、諸資料の保管場所を探していたのです。 丸岡の私の家では、細巾織物業をやっていましたが、不況などで20年前に閉鎖し、工場が空いていました。さっそく郷里の母に電話をして、意向を伝えると「お役にたつなら使っていただきなさい」との返事だったので、加藤会長に申し出ました。
母は、戦前、少女時代に軍事工場で働かされ厭な戦争体験をしていましたので、平和のためになるならの思いもあり、息子が浦島太郎の心境で帰福する心境も察しての判断もあったのかと思います。自らゆきのした文化協会・日中友好協会の会員になり、私で出来ることはと、ニュース発送作業などを手伝ってくれています。母とはありがたい存在だとつくづく思っています。
話はちょっとそれますが、この東別院に安堂智浄(あんどうちじょう)さんという方がお勤めと聞いています。実は、この安堂さんのお姉さんのご主人である田島伸浩さんが、平和文化史料館ゆきのしたの責任者なのです。昨年3月に気象台を定年退職されたあと、私と2人で史料館を整備し、現在もご一緒に平和運動をすすめています。世間は狭いと申しますか、不思議なご縁を感じています。
日中友好運動の分野では、草の根の日中友好を全国的にすすめている日中 友好協会が福井県では25年前に崩壊しておりましたので、再建活動を始めました。加藤会長と私の母と私の三人で準備会を結成し活動を始めました。 支部再建後、ゆきのした文化協会の全面的バックアップで、中国・長春市の偽満皇宮博物院からラストエンペラー溥儀の実物資料を借りて、「満州帝国展」を開催できました。偶然に出来たのでなく、これまでの良き出会いがあったからだと思っています。 今から12年前の1990年9月、「日中不再戦の旅」で中国東北地方を訪 問し、731部隊罪証陳列館(ハルピン)、平頂山殉難同胞遺骨館、9・18 事変博物館、偽満皇宮博物院などを参観し、日本が過去に引き起こした事柄の 歴史認識を新たにしました。「満州は日本の生命線」「王道楽土」と100万人近くの満蒙開拓団員が中国東北部へ送り込まれた。 歴史に翻弄されたラストエンペラー溥儀の生涯もこのとき知りました。二度と戦争はしてはいけない、これからは過去の歴史を踏まえての友好が大事だと胸に刻み込みました。 偽満皇宮博物院で、入り口で求められるままに、その思いを「日中不再戦」と揮毫しました。後に恥ずかしいのですが、中国で出版された本に掲載されていたことを知りました。 そのご縁もあって、偽満皇宮博物院院長の李立夫ら中国マスコミ文化代表団を、1999年10月に、ゆきのした文化協会が福井に招き、「平和文化史料館準備館」に来ていただいてもいます。 そうしたことから、2000年8月に福井で「満州帝国展」が開催できたのでした。同博物院から趙継敏同院副院長、王斌学芸員をお迎えしました。 2001年1月、再度長春を訪問し、昨年の夏に敦賀と福井で開催しました海外初展示の溥儀直筆日記なども借りられました。 マイナス20度の厳冬の長春。でもお互いの友好の燃えるような友情の交流で胸が熱くなった思いが心をよぎります。
こうした出会いによる積上げが、昨年の京都市・敦賀市・福井市・名古屋市で大きな話題を巻き起こし、確かな友誼の一歩になったのだと思っています。 今年も、中国から731部隊関係の実物史料をかりて「悪魔の飽食」展を開くことが出来ました。 その他、中国語・太極拳・気功などの各教室、中国映画会、きりえ展、田植え・稲刈り会、春節祝賀交流会(昨年300人、今年550人の参加者)、中国から音楽家を招聘しての「ピアノと二胡のリサイタル」(実行委員会主催)など多彩な取り組みをすすめる中で、日中友好協会福井支部は約100人の会員組織になりました。現在、福井県在住の中国人は3400人おられますので、交流を深め合い、共に平和友好をすすめていきたいと思っています。
気功法「香功」のこと 個人的なことでは、訪中20回の間に中国現地で身につけた気功法「香功」(中国の高層がうみだした気功)が、今福井で多くの方々に健康に役立つと日常生活に取り入れていただいています。今年は、NHKテレビに4回生出演させていただき、好評とのことで、来年1月8日には、新春「気功で健康」
生番組に一時間出演することになりました。平和であるから健康な生活ができるのだと思います。
今、不況からくるリストラ・過労などから、自殺した方が毎年3万人を超えています。健康保険料、医療費の値上げで病気もできない暗い現実でもあります。国民が健康で生きていて良かったと思える世の中にしたいものです。
京都生活の時に、交友のあった仲間と一緒に昨年7月、NPO法人・京都 日中文化交流中心を設立し、副理事長として日中文化交流事業にも参加しています。 今年5月に、先ほどお話しさせていただきましたご縁もありまして、清水 寺貫主・森清範先生を団長として「長春〜北京友好の旅」に30人の方々と 行ってまいりました。長春の偽満皇宮博物院のリニュアル式典で、森先生は、 仏教徒の立場から日本人として初めて「日中不再戦、平和の誓い」を挨拶で 表明され、中国のみなさんに大きな感銘を与えました。 この模様は、中国全土にテレビ、新聞で報道されました。日頃から尊敬し ていました森先生と一週間ご一緒でき多くのことを学ばせていただきました。
繰り返しになりますが、来年6月29日に開催します『悪魔の飽食』福井公演の準備をすすめています。音楽を通して、中国・アジアの人々との永久の平和友好を願ってのコンサートを広範な県民の方々と一緒に成功させたいと思っています。
最後に、皆さんと一緒に考えていきたいことがあります。 今、北朝鮮の国家的犯罪である日本人拉致問題が国民の大きな関心事となっています。このこと自体は、国家犯罪であって国際法からも許すべき事ではありません。一日もはやく真相の究明と拉致された方々の意向を尊重した方向での解決を願っています。
ここで考えてみなくてはならない事として、日本は戦前、中国・朝鮮・東南アジア諸国民への多大なる侵略行為をはたらいたという事実です。
中国では2000万人の人命が殺傷され、中国から日本に4万人の強制連行(拉致)がありました。今裁判になっている「劉連仁事件」は、東京地裁では、日本政府に補償として2000万円支払えとの判決が出ましたが、政府は不服として高裁へ提訴しました。私は、戦後13年間、厳冬の北海道の荒野を逃避行された劉連仁さんと6年前に京都でお会いしました。劉さんは、
一言「すまないことをしました」と謝罪して欲しいと言っておられました。 劉連仁さんは、地裁の判決を待たず、一昨年亡くなられましたが、息子さんの劉煥新さんが、後を引き継ぎ先月、福井に来られ、100万人国際署名
(現在90万筆達成)への協力を要請されました。 朝鮮に対しては、35年間、植民地化し日本語を強制しました。日本での強制労働に60万人を連行(拉致)しました。関東大震災のおりは、六千人を虐殺したともいわれています。
べトナムでも、米などの食料を日本軍が独占し、300万人が餓死したとの記録もあります。
日本が、戦前犯した侵略戦争真摯な反省・謝罪があってこそ、信頼関係が生れるのだと思います。
私は、中国各地を訪問してつくづく感じることは、侵略戦争の遺跡を残し若い世代に徹底した歴史教育をしていることです。日本では、30年前から、近代史の教育をごっそり抜かしています。恐ろしいことです。
今、国会で「有事法制」を継続審議として通そうとの危険な動きがあります。憲法の精神を骨抜きにして、アメリカの指揮のもとに新たな海外派兵への道が開かれようとしています。こうした動きには、戦前の苦い教訓をもとに、廃案にしていくことが大切ではないでしょうか? 思想信条の問題では無く、人類の恒久平和のためにも、子供たちに美しい未来をバトンタッチするためにも、それぞれの置かれた条件をいかして、できる行動・戦争は厭だとの意志表示をしていくことだと思っています。 「平和とは、生活の土台」であり、「文化は、生きる力」だと思います。 平和は、黙っていても訪れるものではありません。いつも世の動きに敏感に、戦争の危険な動きをやめさせる行動も、大切なことと思っています。 私はこれまでに、多く方々から学んだことを、これからの平和文化・友好運動の中で活かしながら、皆様とご一緒にさらに「新たな出会い」を求めて生きていきたいと思っています。 ご静聴ありがとうございました。
2002年12月5日 ゆきのした文化協会事務局長 粟田 榮 |
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